金スマにYOSHIKI出演。涙の告白…すべて僕のせいなのか。メンバー2人の死、洗脳、父の自殺。(2)
目次
1. オープニング
2. YOSHIKIの幼少期
3. 父の死
4. YOSHIKIの学生時代1
5. YOSHIKIの学生時代2
6. 「X」結成
7. 「X」メジャーデビュー
8. 「X」世界進出
9. Toshlの洗脳騒動、X JAPAN解散
10. HIDEの死
11. 自分にはまだ音楽がある
12. Toshlとの再会、X JAPAN再結成
13. TAIJIの死、そして現在
本記事における会話中の表記
YOSHIKI⇒Y
中居正広⇒中
大竹しのぶ⇒大
室井佑月⇒室
安住紳一郎(TBSアナウンサー)⇒安
スタッフ⇒ス
表記がないものについては画面に表示された文字か
ナレーターが喋った言葉です。
5. YOSHIKIの学生時代2
きっかけは、偶然親戚が集まっていたある日のこと。
偶然耳にした衝撃の真実。
親戚:あの時は驚いたよなぁ。
あいつがまさか、自殺するなんてなぁ…。
父の死因は、聞かされていた心臓発作ではなく自殺だったのだ。
亡くなる前夜から家を空けていた父。
話によると、車の中に排気ガスを引き込み、自ら命を絶っていたという。
その理由は一切不明。
誰にも分らなかった。
Y:悲しみの方が大きかったですけど、怒りもありました。
なんで?っていう。
その答えは結局分からない。
だから、一生その疑問をもって生きていかなきゃいけない。
疑問と悲しみと苦しみですね。
だがこれは、彼が歩んでいく壮絶な人生の始まりでもあった。
中:疑問と、悲しみと、苦しみ。
大:お母さんとそのことについてお話ししたことはあるんですか?
Y:あまり喋らないです。怖かったんです。
中:口にしてしまうこと、表現してしまうことが?
Y:思い出すことも。いまだに悪夢とかにうなされるんで。
大:今も…。
Y:はい。
痛みって、年を取らないんです。
僕は年をとって父親の年齢も超えてしまいましたけど
痛みってのはそのまま。
大:だからその大好きだったお父さんがいなくなったことで
死ということについて切実に小学生が考えたということですか?
Y:なんで人は生きているのかということを毎日のように考えていました。
なんのために生きているのかなとか。
大:死んだらお父さんのところに行けるのかなとかも考えて?
Y:そういう考えもありましたけど、単純に生きているのがいやだっていうことの方が。
中:覚えていますか?その時のこと。
Y:ほんとにもう、鮮明に。
写真だったら色褪せちゃうと思うんですけど、カラーのまま。
頭の中に刻まれちゃったんでしょうね。
大:いいことも覚えてます?楽しいことも?
Y:そうですね。やはり父が亡くなるまでは楽しいこともたくさんあったので。
けど不思議と、その、1%のつらさが、99%を覆ってしまうんですよね。
人って不思議ですよね…。
中:今お父さん、どういう風に見てるんですかね。
Y:なんとなく、負けるなよって言われているような気がするんですけどね。
中:Toshlさんのお話しも出ましたけども
あれね、小学校の時からまさか30年40年もやると思わないですもんね。
Y:思わなかったですね。
室:保育園からご一緒って言ってましたよね。
Y:そうですね。出会ったのは。
中:なんでしたっけ、バンド。
Y:DYNAMITE(笑)
中:よかったですねーDYNAMITE変えて(笑)
Y:爆発するような何かって考えてて(笑)
中:DYNAMITE JAPANが世界進出!ってね(笑)
よかったよかったDYNAMITEじゃなくて(笑)
Y:そうですね、よかったと思います(笑)
中:Xでよかったと思うわ(笑)
安:さて、いよいよ世界中を熱狂させた「X」の誕生へと繋がりますご覧ください。
6. 「X」結成
YOSHIKIを待ち受ける壮絶な運命
日本中が震撼した3つの悲劇
親友Toshlの洗脳
X JAPAN解散
HIDEの死
今明かされる真実とは。
自分を置いて旅立った父への行き場のない怒りと
大人への反抗。
YOSHIKIはコントロールできない心の闇をドラムへと向け
毎日のように喧嘩に明け暮れるようになっていた。
Y:当時の僕は怖いもの知らずで荒れていたので
誰とでも喧嘩しちゃうみたいな感じで。
よく顔腫らして帰ってきて、お母さんに病院連れてってもらって
口の中縫ったりとか。
問題を起こす度に、母が学校に呼び出されていたのだが
教師:お母さん、ご家庭では彼とどんな話をされていますか?
私たちも、彼をどう指導していいのかさっぱり分からないんですよ。
教師たちが困り果てていたのは、YOSHIKIの扱い方。
ただの不良少年なら話は早いのだが。
まともに授業に出ていないにも関わらず、成績は常に学年のトップクラス。
年に一度行われる千葉県の模試では、県内で唯一数学で満点を取ったこともあった。
しかも、不良にも関わらずクラシックのピアノを見事に演奏。
教師:不良なのか優秀なのか、どっちが本当の彼なんですか?
YOSHIKI母:そう言われましても…。
普通にしていれば優秀なのに、なぜあんなに暴れるのか。
教師たちはまったく理解できなかった。
だが、そんな二面性の裏には、母とのこんな約束が。
YOSHIKI母:佳樹、何をやってもいいけど、ドラッグやシンナーには手を染めない。
それから、窃盗や人を傷つけたりはしない。
それと、受験勉強はちゃんとする。それだけは守ってね。
Y:母にとりあえず勉強だけはしなさいって言われてたので
そこだけはしてました。
母との約束を守り続けたYOSHIKIは、県内有数の進学校へ。
しかし
Y:高校に入ってからはさらに反抗的になってたというか。
入学してきてすぐに、10クラスくらいあったんじゃないんですかね僕の学年
全クラス回って、
入学式当日、YOSHIKIがやったことは
Y(高校生):文句ある奴は出てこい!いつでも相手になってやるよ。
Y:ただ、場違いと言えば場違いですよね。進学校に行ったので。
文句あるやつは基本的にいないでしょうね(笑)
県内1の進学校に不良などいるはずもなく
高校に馴染めずにいたYOSHIKI。
それでも、同じ高校には小学校からのバンド仲間、Toshlがいた。
Y:Toshlはでも、体育系だったんですよ完全に。
頭も丸坊主で、バレー部にいたんじゃなかったかな。
結構スポーツマンでした。
そして、日本で初めて500円硬貨が発行された1982年。
YOSHIKI、高校2年の夏。
歌の上手かったToshlをボーカルに抜擢し、YOSHIKIは新しいバンドを結成する。
そのバンド名こそ
Y(高校生):「X」ってどうかな?
Toshl(高校生):「X」?
Y(高校生):長いバンド名より、パンフレット載った時目立つじゃん。
それに、「X」って辞書で調べたら、無限の可能性って意味もあるんだよ。
Toshl(高校生):いいねそれ!
これこそ、後に日本の音楽に革命を起こし、
世界へと羽ばたいていく、X JAPANの始まりだった。
とは言え、この時はそんな怪物バンドになるなど、思ってもいなかったと言う。
こうして、高校時代は喧嘩とバンドに明け暮れたYOSHIKI。
しかし、高校卒業が近づくにつれYOSHIKIも
進路という厳しい現実について考えなければいけなかった。
自分の将来を心配した母が、先生に相談していたことも知っていた。
自分はこれからどう生きるべきか。
そんな悩める時に、いつも弾いていたのがピアノだった。
悩んだ末、YOSHIKIが下した決断は、
Y(高校生):母さん、俺、音大行くよ。ピアニストになる。
YOSHIKI母:そう、母さん応援する。頑張りなさい。
この日以降、YOSHIKIは受験勉強に打ち込み
暴れまわっていた不良とは別人のように変わっていった。
すると、学校の成績も見る見る上がり
高校からの推薦で音大への進学も決定した。
そうして迎えた高校最後の冬休み。
ふいに訪ねてきたのは、共に「X」を組んでいたバンドメンバー、Toshlだった。
7. 「X」メジャーデビュー
Toshl(高校生):これから先、俺たちどうする?
実は、この直前に出場していたYAMAHAのコンクールで
YOSHIKIはベストドラマー賞を受賞。
Xは、高い評価を受けていた。
Y:ベストドラマー賞とかベストボーカル賞を貰ってしまうわけですよ。
その辺でなんか、ひょっとして俺たちすごいんじゃない?とか思い始めて
もしかしたら、自分たちにはもっと大きな可能性が秘められているのかもしれない。
そう考えたYOSHIKIは
Y(高校生):トシ、Xで日本征服、いや、世界征服しよう!
なんと無謀にも、大学進学を捨て、
バンドで勝負することを決意してしまうのである。
母は当然の如く猛反対したが、息子が決めた以上
止められないことは誰よりも分かっていた。
そしてYOSHIKIは、高校を卒業。
卒業アルバムに書いたメッセージはたった一言。
「X」
まさに、無限の可能性が広がろうとしていた。
中:そりゃお母さん反対しますよね。
大:絶対反対しますよねー。
中:(大竹、室井に)それはお母さんの立場だったら分かりますよね。
大学進学決まっているんですよ。
室:軟禁状態にしてでも行かせない(笑)
Y:もし大学に行っていれば、もしロックの道がダメでも
ピアノの先生になれたし、他の道があるじゃないって
いろんな人に言われたんですよ。母も含めて。
それがすごく嫌で。
中:それが嫌で?
Y:この道がなかったら死んでやるんだ。これしかないんだっていう。
中:いやでも、人間誰でも保険かけるじゃないですか。
Y:常に死という言葉が自分にあったので、
どこかで「ダメだったら死んでやる」っていう気持ちが。
あんまり言うと周りには怒られていたので、自分では思っていました。
まだ(その気持ちは)自分では持っていると思っているんですけど。
中:YOSHIKIさん今出てませんでしたけど、モテましたよね?
大:少女漫画に出てくる、ね。
中:勉強ができて、ヤンチャで、ピアノが弾けるっていう。
大:しかもベートーベンみたいなね。
Y:やっぱり勉強はしてました。
友達のバイクの後ろに乗りながら英単語帳読んでたり(笑)
佳樹なにやってんの?って聞かれたら、明日試験があるからって言って(笑)
英語覚えてるって言って。爆音の中で英単語を。
中:すごい、その時代の二刀流ですよね(笑)
室:おかしいでしょ最初入ってきて「なんか文句ある奴いるか」って(笑)
中:それは悪いわ、文句ある奴いるかっているわけないじゃないですか(笑)
なんの文句もないです(笑)
Y:僕「X」ってバンド以外に「ジーニアス」ってバンドやってて。
そのメンバーもみんな頭いいんですよ。
ベースの人も東大入って、キーボードの人は京大入ってみたいな
そういうところでやってて。
中:高校生の頃にXはもう誕生してたんですね。
Y:はい、そうですね。
幼馴染のToshlと、高校時代にXを結成したYOSHIKI。
彼らが千葉県から上京したのは、1984年。
当時音楽シーンは、ザ・ベストテンや夜のヒットスタジオなど
アイドル全盛の時代。
そんな中、ロックバンドが売れるためにはどうすればいいか。
Y:派手じゃないといけないんじゃないかとかいろいろ思い始めて。
こうして、YOSHIKIの発案で
メンバー全員金髪に。
まったくの無名バンドだったが、地道なライブ活動を続け
TAIJIとPATAが加入しメンバー5人が揃うと
YOSHIKIはメンバーの前でこう告げた。
Y:「必ず成功させる」ってメンバーに言って。
まぁ、「俺についてこい」みたいな感じで言いました。
夢は、「日本一のロックバンドになる」。
ワゴン1台で、全国のライブハウスを回る。
当然ホテル代もない5人は、野宿をして夜を明かした。
常に一緒にいるメンバー。
いつしかYOSHIKIにとって、家族のような存在になった。
Y:夢に向かって進んでいるっていう
あんまり細かいことを気にしなかったっていうか。
そうですね、でも結構蚊に刺されたりしたな(笑)
公園とかで寝てて。それは覚えてるな(笑)
一応ビジュアル系なので、蚊に刺されて出ていくのは
よくないんじゃないみたいな(笑)
そんな地道な活動の甲斐もあって
インディーズながらどんどん知名度を上げていったX。
そして、いよいよ勝負する時がやってきた。
自費でのアルバム制作代は1000万円。
そんなお金はあるはずもなかった。
だが、諦めきれないYOSHIKIは。
Y:「1000万円貸してくれ」と(母に)。
何するの?って言うから、レコードを作るんだって言って。
そろそろバンド辞めたら?って言われたんですね。
ただそれでダメだったら、(母の)好きなようにするんでって言って。
デビューの目途すら立っていないばかりか
世の中ではまったくの無名。
そんな大金を貸してくれるわけもなかった。
しかし母は、YOSHIKIの可能性を信じ
翌日、1000万円を振り込んでくれたと言う。
売れなかったら、母にお金を返せない。
大勝負だった。
その結果は
ファーストアルバム「Vanishing Vision」は
なんと、1週間で1万枚が完売。
インディーズチャートで堂々の1位。
YOSHIKIを信じてくれた、母のおかげだった。
だが、この成功に音楽界からの評価は
Y:最低じゃないですか。
派手で、過激で、中身がない みたいな。
本当にXって評判悪かったんで。
そんな中、評判の悪かったXに目をつけた人物がいた。
Xに注目したのは、ソニーレコードの津田直士。
後に、Xのプロデューサーになる人物だった。
津田は、「売れなければ死ぬ」と言っていたYOSHIKIから
異常なまでの熱を感じたと言う。
津田:目の前に白いシャツを着て現れたんですけど
僕超常現象とか全然見ないんですけどね
胸に本当に鮮血が見えたんですよ。
ちょうど心臓の辺り。
考えたら幻覚なんですけど、なんだろうみたいなね。
YOSHIKIが持っている「命がけのエネルギー」。
普通の言葉で言えば「殺気」ですけどね。
それの表れだったんじゃないかと思うんですけどね。
メンバーの人生も背負っているYOSHIKIは、必死だった。
まず覆さなければいけないのは「中身のないバンド」という評判。
津田は、YOSHIKIがデビューに向けて作った曲に、衝撃を受けたと言う。
津田:それが「ENDLESS RAIN」だったんですよね。
そのサビを聴いた時に、本当に信じててよかったなって思って。
本当に移動度だけで言うと、ミシドだけで。
こんなにシンプルで今までなくて
ちゃんと人の心を打つメロディーを生める
これ本当にベートーベンとかバッハとかチャイコフスキーとかと同じ領域ですよね。
ENDLESS RAINっていう名曲が生まれた瞬間に
僕は視界がものすごく明るくなった。開けたというか。
これはブレイク絶対できるなって思ったんですよね。
こうして1989年、アルバム「BLUE BLOOD」でメジャーデビュー。
過激なスタイルと、激しくも美しい音楽性で、若者を中心に人気を集め
当時、トップレベルのロックバンドですら10万枚の売り上げで大ヒットだった中
その年だけで、60万枚のセールスを記録。
幼少の頃から父が聴かせてくれたクラシック。
培った才能が花開いたのである。